《諏訪康雄先生((法政大学名誉教授)のシリーズエッセイ2》 温故知新のキャリア論

「温故知新のキャリア論」  諏訪康雄(法政大学名誉教授)

すぐれた先達の言葉には多くの示唆が含まれています。ちょっと読み込み過ぎじゃないかと言われそうですが、先人の人間観察の指摘を「キャリアの視点」に引きつけて垣間見てみましょう。

1.ソクラテスのキャリア論

ソクラテスの言葉の端ばしからは、いつも多くのことを学べます。

「人間の自然本性は、経験のない事柄の技術を得るほどには、強くない」(プラトン(渡辺邦夫訳)『テアイテトス』ちくま学芸文庫、2004年、27頁にあるソクラテスの言葉)

分かりやすく言い換えれば、人間は、生まれながらにして、なにも経験や教育訓練の機会が得れれないままならば、社会において必要とされる仕事の処理能力、つまり特定の知識や技術技能や行動特性を獲得していることはあり得ない、と示唆しています。

当たり前のことですが、古代ギリシャ哲学の始祖が言っていたと聞けば、教育訓練や経験学習の意義をあらためて認識させられます。
時代変化のなかで次つぎと新しい事態や知識や技術技能が生まれてくる以上、生涯学習をやり続けることが必要なのだ、と思い知らされます。

また、ソクラテスは、こんなことも言っています。

「すこしのことをよく仕上げることのほうが、たくさんのことを不十分にしか仕上げないことよりも、すぐれている」(同書139頁)

物知り屋さんのクイズ的な知識、何でも屋さんの器用貧乏、人脈屋さんの広く浅い顔つなぎなどは、多くの場合、仕事をするうえであまり高く評価されません。 情報通信社会となり、その種のことがネット上で簡単にできるようになった現在、一層そうなりました。
一つひとつの事柄をしっかり身につけ、「狭くても深く」、広い意味での専門性と考えられる、周囲に卓越する、自分なりの知識、技術技能、経験を持っている人こそが、評価されます。

2.キケローの人材育成論

ローマの弁論家キケローも、こんな言葉を残しています。

「類まれな、輝かしい本性にある種の組織的訓練と学問による陶冶が加わったならば、その時こそ素晴らしい特異な才能が開花する」(キケロー「アルキアース弁護」、小川正廣・谷栄一郎・山沢孝至訳『キケロー弁論集』岩波文庫、2005年、130頁)

ここでも、生まれながらの能力(本性)だけでは成功は難しく、教育(学問による陶冶)と実習(組織的訓練)とが兼ね備わってこそ、才能は花開くとの指摘がなされています。体系的な学問と経験学習が必要だと読むことができます。

また、分業と協業の社会的な仕組みを前提にすると、各人に課された個々の業務をしっかりやりとげるという分業の前提として「教育=知的訓練」が必要ですが、それだけでは足りず、実地に「組織的訓練=OJT」を受け協業の仕方も学んでこそ、分業を協業に統合する能力は身につくと読むことも可能でしょう。

さらに、キケローの挙げた順番からすると、まず実地の組織的訓練を受け、それを踏まえた教育を受けることの学習効率の良さを示唆しているようにも思えます。

いずれにせよ、2000年以上前の人が「キャリア開発の本質」ついて、すでに喝破していたことには感心せざるを得ません。

3.トマス・アクィナスの社会分業論

「分業と協業」と言えば、中世の神学者トマス・アクィナスは、社会分業論を意識し、こんな風な議論をしています(柴田平三郎訳『君主の統治について:謹んでキプロス王に捧げる』岩波文庫、2009年、17-19頁。原著執筆は1267年ころ)。

「人間は、他のすべての動物にもまして、自然本性上、集団のなかで生活する社会的および政治的動物であることは明らかである。」

「すべてを人間は一人では調達することができない。というのも、人間は一人だけでは十分に生活を営んでいくことができないからである。だから、人間は多人数の社会のなかで生きていくのが自然本性に適っているのである。」

「一人の人間が自分の理性だけでこれらすべての物事を知ることは到底できない。そこで人間は集団のなかで生活することが必要になるのであって、そうしたなかで各人は互いに他の者の助けを受け合い、それぞれ理性を働かせてある人は医学を、他の人は何か別のものを、というふうに異なった仕事を見つけだして、それに従事するのである。」

個々人のキャリア形成もまた、「分業」のためにその人なりの「職業の選択と集中」を必要とし、同時に、社会での「協業」のためにコミュニケーション能力や対人能力などの学習もまた不可欠となることを示唆しています。

4.オルテガ・イ・ガセットのキャリア始期論

時代をずっと下って1930年に、スペインの思想家オルテガ・イ・ガセットは、こんな言葉を書き残しました。

「青年はつねに信用貸しで生きてきた」(神吉敬三訳『大衆の反逆』角川文庫、1967年、214頁)

まさしく、若い人の採用、新卒採用の本質は「信用貸し」(与信)つまり将来性への期待の発現です。

一定期間、働かせてみないと、人材の実情はわかりません。おそらく1年間、苦難をともにすれば、相当程度に理解ができることでしょう。でも、新卒一括採用ではそれほど悠長なことをしていられませんから、何度かの面接と過去の経歴や業績の評価から「見通し」を立て、採用せざるを得ないのです。

要するに、「信用貸し」と同じであり、何度かの返済、完済を受けてみて初めて、つまり仕事を実際にあれこれこなしてもらって初めて、当初の判断が正しかったかどうかがわかる性質にあります。

これは、就職する青年にとっての企業や業界の本質についての判断でも同様です。一定程度の自分「時間」を投資してみてはじめて、仕事内容とキャリア展開の実情が理解できるようになります。

このように、古典化した過去の人びとの意見を、キャリアの視点からあらためて読み込んでみますと、多くのことに気づけます。皆さんもすでになさっているでしょうが、まだの方は、時どき試してみませんか。きっと目から鱗の発見があることでしょう。

(つづく)