《リレーエッセイ10》 当NPO会員・総務部長 樋口 静夫 様

《リレーエッセイ10》「過去・現在そして今後へ」
認定NPO法人 キャリア権推進ネットワーク会員・総務部長 樋口静夫

◆過去・現在そして今後へ

 今でこそ働く人のキャリア形成・支援が一般的に広がりつつある時代となりましたが、私が公務員(職業安定行政)として勤務していた若い頃は、とても考えられないことでした。苦い経験としてその頃のことを思い出しました。

 今からおよそ35年前、私は沖縄県庁の職業安定課に勤務していました。その当時の重要課題の一つが「風疹障害児の就職問題」でした。1964年、県内に風疹が流行し、翌年聴覚に障害のある子たちが多く生まれ、俗に「風疹障害児」と呼ばれました。その子たち(約140人)が成長し、特別に新設された聾学校高等部を卒業し、いよいよ就職する年にあたっていたのです。

 当時の県内の有効求人倍率は、0.2倍台で、10人の求職者に2件しか求人がない状態でした。学卒者の求人も十分ではありません。加えて、この子たちには、聴覚障害というハンディがあります。このため、就職支援に向けて、私たちは悩みました。まず、夏休みの暑い最中に聾学校の教室に父母の方々に集まっていただき、先生方と一緒に、就職環境の実情や就職に向けての心構え等を説明しました。 その際の父母の方々からの熱い視線や「就職しないと生活できないので何とかしてほしい」といった声を思い出します。 また、職業安定課が音頭を取って、当時の西銘知事を筆頭に県庁三役、学校の先生方と共に、県内や県外の企業に赴き、求人の提出と就職後の支援についてお願いに回りました。そうして集まった求人は、県内では小零細企業の小売関係求人、県外では、男子が関東及び中京地区の自動車関係製造工、女子が中京地区の縫製工が主なものでした。

 就職あっせんにあたって、生徒たちの希望条件を確認すると、県内での就職を希望する者がほとんどでした。しかし、その希望に沿った求人は、数、内容とも十分ではありません。結局、何とか確保できた求人に応募してもらおうと対応せざるを得ませんでした。その結果、多くの生徒たちが県外の会社に就職することが決定しました。
旅立ちの日、那覇空港で見送りに来た親・兄弟と涙を流し、肩を抱き合って別れを惜しむ姿が目に焼き付いています。

 彼らは、現在、50歳代の半ば、これまでどんなキャリアを歩んできたのだろうと思いを馳せることがあります。その後の状況を地元の職員に聞くと、残念ながら短期間のうちに離職した子供たちも少なくないとか…。

 そして今、沖縄県の有効求人倍率も1倍も超えて、全国的にも人手不足と言われています。また、障害のある方々に対しては、法律に基づき、事業主が「合理的配慮」として一人ひとりの障害によって発生する困難を取り除くことが課されるようになりました。こうしたことから、全国的に、そして障害のある方々にとっても、「自らのキャリアを自ら選択・決定できる環境」が整いつつあります。
そして、今後もこのような環境が後退することなく、さらに進展していくことを求めて止みません。

※プロフィール
認定NPO法人キャリア権推進ネットワーク会員
公益社団法人全国重度障害者雇用事業所協会コーディネーター